英語学習を頑張るみなさん
英会話スクール・通信講座・オンライン英会話・アプリなど、様々な学習方法をご提案してきましたが、時代によって学習方法は変化します。
携帯やインターネットの普及前、どんな風に英語学習がされていたのか
今日はそんな日本における英語学習の変化(歴史)とちょっとディープな世界へご案内します!!
日本における英語学習の始まり
そもそもいつ英語は日本に上陸したのか
それは江戸までさかのぼります。
1600年、英語が母国語話者のウイリアム・アダムスが、オランダ商船に乗って漂着したのが最初だと言われています。(後に家康の外交官となった人です。)
当時はまだイギリスよりもオランダの方が日本にとって重要だったので、そこまで英語が広がることはありませんでした。
1639年日本は鎖国、当然英語は広まりません。
その約170年後の1808年、フェートン号事件をきっかけに日本で英語学習が始まります。
脅されて焦って英語学習を開始
1808年、一隻の異国船がオランダ国旗を掲げて長崎の港へ入ってきました。
入港手続きのために近づくと、その船はオランダ人を人質にとったイギリスの軍艦フェートン号だったのです。
港の船を全て焼くぞ!と脅されて薪水と食料を奪われます。
これがフェートン号事件です。
この事件をきっかけに、焦った幕府が長崎にいた通詞(ポルトガル語の公式通訳)たちにロシア語と英語の習得を命じたのが日本における英語学習のはじまりです。
しかし、急に命じられても辞書も教材もありません。
そこで大通詞だった本木庄左衛門は、仕方なく代々家に伝わる英蘭対訳の学術書などを参考に手引書に着手します。
1811年「諳厄利亜興学小筌(あんげりあこうがくしょうせん)」を作成、その3年後
1814年、初の英和辞書「諳厄利亜語林大成」を完成させます。
英語学習の歴史
辞書を作っても鎖国中、民衆に英語が広まることはありませんでした。
そんな最初の辞書ができて40年後、1854年日本がついに開国
今まで盛んだった蘭学から英学へ流れが変わっていき
(あの福沢諭吉も、この頃に蘭学から英学に転向したとされています。)
さらに明治維新を経て、一気に英語が学問として広がっていきます。
明治時代
文明開化の時代、明治初期に民衆の間で「文明語」=英語の第一ブームが到来します。
英語以外の教科も英語の原書を使用していました。
(1883年には外山正一によって「漢字を廃止し、英語を勉強するべき!」とまで言われるほど。)
しかし、1885年伊藤内閣は「教育の国語主義化」を打ち出し、文重視の変則英語、卓上の英語学習が主流になっていきます。
1905年日露戦争に勝利することで、第二の英語ブームが起きました。
英語雑誌・専門誌もかなりの種類が創刊され、英語が「言語」としてではなく、「学問」として深堀されていきます。
この英語専門誌によって「文法」「慣用句」「熟語」の使い方(規範文法)が確立されていきました。
(夏目漱石が学んだのは、変則英語の全盛期でした。その事もあり、本の翻訳を熱心に行っていたのです。)
ちなみにこの英語専門雑誌には「絵葉書交換希望」のコーナーがあり、名前とイギリスの住所が載っていて、文通の募集をしてたらしいです。
現代の様にすぐに海外へ渡ることのできない時代、学んだ英語を生かすチャンスが欲しい人がたくさんいたんですね。
大正・昭和時代
大正
1912年、市河三喜による「英文法研究」が出版され、ここで「記述文法」の考えが生まれます。
そうなってくると「話し言葉もあるし、文法だけが全てじゃないのでは?」と唱える人も出てきたり・・・
でも、佐山春水は1914年「英語之日本」を発表します。
これは「自然な習得か文法か」を説いたもので、要約すると
机勉強はせず外国人と接することで学んだ「英語」(自然習得)は、その環境から離れると忘れる。しかし机勉強で文法をしっかり勉強しておけば、忘れない。
という、「変則英語学習」を推すものです。
ということらしいのですが・・まぁ確かに使わないと忘れてしまう部分はありますが、文法だけ勉強していても「話せ」ないですよね・・昔はちょっと極端です。
大正デモクラシーをきっかけに英語学習が大衆化(一般化)
「英語を指導するための方法論」つまりどんな学習方法が良いのか「教授法」が模索されます。
大正の後半には「オーラルメゾット」という音声重視英語教育論も生まれ
「文法」と「音声」どちらが重要なのか・・・
さらに激論になります。
また、音声教材がない昔は発音の練習をどうしていたのか不思議じゃないですか?
1921年、岡倉由三郎が「英語発音練習カード」を発売したんです。
顔の断面図、口の絵、声門の開閉を示す記号が書かれたカードで、これを使って発音練習をしていたとか・・できるんですかね?笑
昭和(初期~終戦)
そんな激論がされる中、1927年藤村作が「英語科廃止」の論文を発表
これが発表された昭和初期頃、
中学校3年の一年間で新出単語が1,134語と、現在の中学校三年間で1,200語程度と比べると圧倒的な差がありました。
苦労して多くの単語を覚えても、これだけ英語学習をしても英語を使えない学生たち
そんなことに時間を割くよりも、もっと日本人として他に目を向けることがある。
新しい英語学習の方法(教授法)を模索していく動きと、この英語なんて意味あるか?と英語学習を止める動きが喧嘩になります。
そうしているうちに戦争へ突入・・
英語は「敵性語」さらには「敵国語」となり、英語教育の発展はほぼ止まります。
華府(ワシントン)桑港(サンフランシスコ)
聖林(ハリウッド)hollywood「(西洋)柊」を holy wood「聖なる林」と誤訳から生まれた表記なんだそうですよ。
カタカナ英語も禁止され
野球・・・ストライク=よし一本 セーフ=よし アウト=ひけ ファウル=だめ
となったそうです。だめって・・今だと面白いですよね(笑)
1945年(終戦以降)~
終戦しアメリカ兵が駐在するにあたり、日本で再び英語学習の必要性が高まります。
昭和30年代になると、またも学校で習ってもさっぱり英語を使えない
「役に立つ英語(会話力と文作文力)を教えよ!」と論争が巻き起こります。
30年代後半から「オーラルアプローチ」音声重視の学習法がブームになり、しかし英語力は伸びず・・・
東京オリンピック後、1970年頃から言語教育においてコミュニケーションが重要であるとした
「コミュニケーション中心主義」になり、
現代でいわれる、英語で自己表現を目指す「英会話」「生きた英語」などの「実用英語」の取得が目指されるようになったのです。
訳の変化
英語学習の発展は、同時に英語研究の発展を意味します。
研究が進むにつれて、実は訳も少しづつ変化してきました。
1861年将軍と呼ばれる人がまだいる、明治が始まる少し前に出版された「英語箋」の中で
生じる=to bear 損する=to discompose と定義されています。
現在、それをGoogle翻訳でみると、
to bear=負担する・耐える to discompose=分解する
ちなみに生じる=Arise 損する=Lose
と、ちょっと意味が遠い気がしますよね。
最初にお伝えしたように、英語→オランダ語→日本語が始まりなので正確なニュアンスや意味が間違って伝わっている部分があるのだと思います。
そして明治の英語学習の普及や文法の発展もあり
1918年「原文訳文詳註アン・アッチクフィロソフィー講義」訳)内藤明延
expressing fondness=懐かしみを表す
charming=魅力ある又は愛嬌のある
1923年「英文学叢書 kim」における岩崎民平の注釈
confusedly=ごっちゃに
hand in glove with =intimate with =・・と意気投合して
とされていて、現在の「愛情を表す」「魅力的な・可愛らしい」「混乱して」「親密な」と、ほぼ遜色ない訳になっていきました。
まとめ
- 実はなん十年ではなく、なん百年も前から英語学習の大切さが議論されていた。
- 「文法」か「音声」か、と極端な議論がされていた。
- 単語の意味や文法も歴史によって変化している。
- 現代では「コミュニケーション」が重視され、「相手に伝わること」を重視し学習する傾向にある。
- 時代の流れと共に英語学習方法も多様化し
限られた輸入本→印刷された教科書勉強→CDでリスニング勉強→家庭教師→塾→通信講座→オンライン講座など
何を重視するかによって、様々な学習方法を選択できるようになった。
こういった歴史の流れがあって、現在の英語学習法はたくさんあるのだと思います。
義務教育の授業だけでは、必ず「足りない部分」が出てくるのです。
その時、その時に合わせて、自分に必要なものを選んで学んでいきましょう!
そのためにも、このブログでは様々な英語学習方法をどんどんご紹介していきたいと思います!!
<明治から昭和まで>日本の英語教育を彩った人たち 著)外山敏雄